2018年4月2日祈祷会(士師記2章、とげとしての異邦人を残される主)

1.とげとしての異邦人の存在

・イスラエルは約束の地カナンに入ったが、全ての土地は与えられず、先住民がその地に残った。それは歴史的には占領地の支配が難航したことを示すが、信仰的にはイスラエルに、「目に見えるとげ」、罠が与えられたことだ。
―士師記2:1-3「私はあなたたちをエジプトから導き上り、・・・先祖に与えると誓った土地に入らせ、こう告げた。私はあなたたちと交わした私の契約を、決して破棄しない、あなたたちもこの地の住民と契約を結んではならない・・・と。しかしあなたたちは、私の声に聞き従わなかった・・・私は彼らを追い払って、あなたたちの前から去らせることはしない。彼らはあなたたちと隣り合わせとなり、彼らの神々はあなたたちの罠となろう」。
・荒野の民は苛酷な状況の中で主に従った。肥沃な地に入れば、厳しい労苦は不要になり、民は偶像礼拝に走る。ヨシュアの世代がいるうちは、民は主に仕えた。しかし、世代が変わると、民は主を捨ててバアルの神に走った。
―士師記2:7-11「主がイスラエルに行われた大いなる御業をことごとく見た長老たちの存命中、民は主に仕えた・・・その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった」。
・カナンで信仰されていたバアルは雷、稲妻、雨を支配し、豊かな収穫を与えると信じられていた。アシュタロテはバアルの配偶神で豊穰の女神である。農耕生活に移った民にとって、天候を支配するバアル崇拝は大きな誘惑だった。
―士師記2:12-13「彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。彼らは主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えた」。
・偶像崇拝は先住民との婚姻を通してイスラエルの中に入ってきた。
−士師記10:6-8「イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行い、バアルやアシュトレト、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモン人の神々、ペリシテ人の神々に仕えた。彼らは主を捨て、主に仕えなかった。主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らをペリシテ人とアンモン人の手に売り渡された。敵は、その年から十八年間、イスラエルの人々、ヨルダンの向こう側ギレアドにあるアモリ人の地にいるすべてのイスラエルの人々を打ち砕き、打ちのめした。」

2.豊かな地における砕き

・主を裏切った民に対する措置は、敵の手に民を放置することだった。
―士師記2:14-15「主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。出陣するごとに、主が告げて彼らに誓われた通り、主の御手が彼らに立ち向かい、災いをくだされた。彼らは苦境に立たされた」。
・民は苦難に陥ると主の名を呼び、主は士師を送られる。しかし、士師が死ぬとまた同じ堕落を犯す。
―士師記2:18-19「主は彼らのために士師たちを立て、士師と共にいて、その士師の存命中敵の手から救ってくださったが、それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである。その士師が死ぬと、彼らはまた先祖よりいっそう堕落して、他の神々に従い、これに仕え、ひれ伏し、その悪い行いとかたくなな歩みを何一つ断たなかった」。
・主は言われた「イスラエルを試すために、私は異邦人をとげとして彼らの中に置く」。
―士師記2:20-22「主はイスラエルに対して怒りに燃え、こう言われた『この民は私が先祖に命じた私の契約を破り、私の声に耳を傾けなかったので、ヨシュアが死んだ時に残した諸国の民を、私はもうこれ以上一人も追い払わないことにする。彼らによってイスラエルを試し、先祖が歩み続けたように主の道を歩み続けるかどうか見る』」。
・ヨシュアと長老たちがいなくなると、イスラエルは各々「自分が正しい」と思うことをして、主の前に罪を犯すようになる。主は諸国民によって「イスラエルを試し、先祖が歩み続けたように主の道を歩み続けるかどうか見るため」(2:22)、彼らの歩むままに放置される。主の手は敵の手を通して現される。カナンの民に同化するような生き方をしていた民らは、苦難にあうと、また主の御名を呼び、主は士師を起こして助けを与えられる。その士師が生きている間は、敵の手から救われるが、士師がいなくなると、また逆戻りする。士師記はそれを延々と繰り返す。
−士師記3:12「イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行った。彼らが主の目に悪とされることを行ったので、主は、モアブの王エグロンを強くすることでイスラエルを脅かされた。」

3.士師記が教えるもの(とげを必要とする人間)

・一代目の悔改めも二代目、三代目になると薄れてしまう。民は主なる神を忘れ、再び偶像の神を拝む。イスラエルの預言者は繰り返し、モーセとヨシュアの呪いが実現すると警告する。主はエレミヤにも言われた「人は自らの力で神の戒めを守ることは出来ない。人は、黒人がその肌の色を変えることが出来ないように、その悪を捨てることが出来ない。だから人は砕かれなければならない」と。
―エレミヤ13:23-24「クシュ人は皮膚を、豹はまだらの皮を変ええようか。それなら、悪に馴らされたお前たちも、正しい者となりえよう。私はお前たちを散らす、荒れ野の風に吹き飛ばされるもみ殻のように」。
・人は根底から変えられる体験をしないと、戒めを守り続けることはできない。そのために人は絶望という淵を歩まされる。ユダヤ民族は国の滅亡と捕囚という悲しみを負わされ、それを通して変えられていく。
−哀歌3:25-33「主に望みをおき尋ね求める魂に、主は幸いをお与えになる。主の救いを黙して待てば、幸いを得る。若い時に軛を負った人は、幸いを得る。軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ。主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない。」
・人は苦難(十字架)を通して神と出会う。その時、人は根底から変えられ、この変化なしに人は神に従うことはできない。モルトマンの経験は私たちにそう教える。
−「私は1945年にベルギーの捕虜収容所にいた。ドイツ帝国は崩壊し、ドイツ文化はアウシュヴィッツによって破壊され、私の故郷ハンブルクは廃墟となっていた。私は神と人間に見捨てられように感じ、私の青春の希望は消え失せてしまった。私の前には将来が見えてこなかった。その時、私は収容所でアメリカ人従軍牧師から聖書を一冊もらい、読み始めた。受難の物語が私の心を捕らえた。イエスの死の叫びの所にきた時(マルコ15:34)、私はすべての人がイエスを見捨てる時にも、イエスを理解し、イエスの元に一人の方がいますことを知った。それは私の神への叫びでもあった。私はイエスによって理解してもらっているように感じ、神に見捨てられたイエスを理解し始めた。私は生きる勇気を奮い起こした。このかつての苦しみを共にした兄弟であり,罪責からの救済者であるイエスとの交わりは、それ以来もはや私を見捨てることはなかった。十字架にかけられたイエスこそ私にとってのキリストである」(「今日キリストは私たちにとって何者か」から)。
・青野太潮はそれを「十字架につけられたままのキリストに出会う」と表現する。彼は語る「自らの力により頼む強い生き方ではなく、イエスと共に、そしてこの世の苦難を強いられている人々と共に『十字架』を担い続ける『弱い』生き方を選び取って行くこと、そこにこそ真の『強さ』が、そして『救い』が逆説的に存在する」(「パウロ、十字架の使徒」から)。このとげが人には必要である。
−2コリント12:7-10「思い上がることのないようにと、私の身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました。すると主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱い時にこそ強いからです。」