すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.ヨルダン川東岸への帰還と祭壇の設立

・約束の地は征服され、民はそれぞれ嗣業の地を得た。ヨルダン川東岸に領地を与えられていた三部族も、モーセに約束した責務が終わり、自分たちの土地に帰ることとなった。
−ヨシュア記22:1-4「ヨシュアは、ルベン人、ガド人、マナセの半部族を呼び寄せて、言った『あなたたちは、主の僕モーセが命じたことをことごとく守っただけではなく、私が命じたすべてのことにも聞き従った。あなたたちは、今日に至るまで長い間、同胞を見捨てず、あなたたちの神、主の命じられた言いつけを守ってきた。しかし今や、あなたたちの神、主は約束されたとおり、同胞に安住の地をお与えになったのだから、あなたたちは主の僕モーセから受けたヨルダン川の東側にある自分の所有地の天幕に帰るが良い』」。
・主が与えられた約束の地は、ヨルダン川西岸であったが、三部族は約束の地への侵攻を前に、ヨルダン川東岸に土地を求めた。モーセは怒ったが、最後に、他の部族の土地占領のために協力するならばそれを認めると妥協した。今戦いが終わり、ヨシュアは彼らを約束の地に送り出すが、彼らが異教の地で信仰をなくすのではないかと懸念して、彼らに確認する。
−ヨシュア記22:5「主の僕モーセが命じた戒めと教えを忠実に守り、あなたたちの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めを守って主を固く信頼し、心を尽くし、魂を尽くして、主に仕えなさい」。
・三部族は領地に戻ったが、懸念した出来事が起こった。ヨルダン川を渡るや、彼らはそこに祭壇を築く。自分たちの祭壇を築くということは、自分たちの礼拝の場所を民族の共通祭壇であるシロ以外の地に持つことであり、それは主に対する反逆であった(申命記12:5「必ず、あなたたちの神、主がその名を置くために全部族の中から選ばれる場所、すなわち主の住まいを尋ね、そこへ行きなさい。」)。その場所はヨルダン川西側のエフライムの相続地にあるシロという場所に部族全体で決定していた。なのに、ルベン、ガド、マナセの半部族は、それとは別に祭壇を築いたことが問題となった。
−ヨシュア記22:10-12「ルベンとガドの人々、およびマナセの半部族は、カナンの土地にあるヨルダン川のゲリロトに着いたとき、そこに一つの祭壇を築いた。それは目立って大きい祭壇であった。イスラエルの人々は、ルベンとガドの人々、およびマナセの半部族が・・・祭壇を築いたとの知らせを聞いた。これを聞いたイスラエルの人々は、シロで、イスラエルの人々の共同体全体の集まりを開き、彼らに対して軍を差し向けることにした」。

2.個人の救いと共同体の救い

・イスラエルの人々が主張したことは、個人が罪を犯せば、共同体が責任を問われるという個人と共同体の一体の信仰である。信仰の基本は共同体のものであり、そこから個人の信仰が導き出される。
−ヨシュア記22:16-18「主の共同体全体はこう言う。お前たちが今日、イスラエルの神、主に背いたこの背信の行為は何事か。お前たちは、今日、自分たちのために祭壇を築いて、主に逆らっている・・・今日、主に逆らうなら、明日、イスラエルの共同体全体に御怒りが下るであろう」。
・三部族は弁明する「私たちは地理的分離が宗教的分離を招くかもしれないので、子どもたちに信仰は一つであることを教えるために祭壇を築いたので、他意はない」と。
−ヨシュア記22:24-26「後日、あなたたちの子供が私たちの子供に向かい、『あなたたちはイスラエルの神、主と何の関係もない。ルベンとガドの人々よ。主はヨルダン川を私たちとあなたたちとの境とされた。あなたたちには、主の割り当てはない』と言って、あなたたちの子供が私たちの子供に主を畏れることをやめさせるかもしれません。それで、自分たちの手で祭壇を築こうと申し合わせたのです」。
・ヨルダン川東岸は約束の地の外にある、異教の地である。異教の地で、信仰の純粋性は保てるのか。ほとんどの人がキリストを信じない地に住む私たちの問題でもある。
−第一ペテロ2:11-12「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります」。
・ここで問題になっているのは、救いは個人の出来事であるのか、共同体の出来事であるのかである。主は「私たちにあなたがた」と呼びかけられる。誰かが救いから離れることは、私の問題になりうるのだ。
−ヨハネ15:5「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである」。
・「私の救い」が「私たちの救い」にならなければいけない。同胞のためならば自分が救いから落ちても良いと言ったパウロやモーセの祈りを私たちは心して聞く必要があろう。
−ローマ9:2-3「私には深い悲しみがあり、私の心には絶え間ない痛みがあります。私自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」。
・主が与えて下さる救いとは、単に神と私との間の平和だけでなく、主によって救われた者同士の平和にも現される。私たちはただ一人で救われるのではなく、救われた民の集まり、共同体の交わりという祝福の中に導かれる。ヨシュア記でも、単に神との関係ばかりでなく、イスラエルの一体性ということも大きな関心を持って語られて来た。主の救いは、そのような見える神の民の一致と平和にも現わされて行かなければならないのであろう。

3.共同体としての教会を考える。

・社会学者・宮台真司は日本に必要なものは信仰共同体ではないかと語る。
−「東日本大震災と原発事故が明らかにしたのは、日本人は「昨日の如く今日もあり、今日の如く明日もある」という自明性、平時を前提としたシステムに依存してしまうという「心の習慣」の問題でした。山本七平が『「あたりまえ」の研究』で示した、「日本人には唯一絶対神が存在しなかったからだ」という指摘です。もしユダヤ教、キリスト教、あるいはイスラム教のような唯一絶対神(The God)があれば、神のまなざしから、自分自身の生活形式を反省することができる。別の言葉で言えば、自分自身の主観に依存しない、自明性に埋没しない、生活形式の評価の物差しを獲得することができる。しかし日本の場合はそうした唯一絶対神が存在しないため、自分が幸福であると認識していればそれでよいとしがちです・・・無縁死、超高齢者の所在不明問題、子どもの虐待放置、自殺率の高さ、さまざまな社会的指標が日本において共同体が崩壊していることを示しています。グローバリゼーションが進むなかで、苛烈な競争に人々はさらされています。精神的な安全を保障する安穏の地となる共同体の再建は必要です・・・そのなかで信仰共同体が重要な役割を果たす可能性は大きい。こうした共同体を介しての相互扶助がなければ人々は生きてはいけない。地域共同体や職能集団共同体に代わる最後の砦として、信仰共同体のもつ可能性はあるのではないかと思っています。」(宮台真司「社会における宗教の役割・機能について」)。
・東京神学大学の芳賀力は「信仰共同体としての教会」という論述の中で語る。
A御言葉に立つ教会:今日聖書を読む読み方が崩れかけています。当時の世界観や特定の信仰によって脚色された歴史的な記録文書のようにしか見られず、信仰と生活の誤りなき規範とは受け取られません。聖書を生ける神の言葉としての正典として読むにはどうしたらよいのでしょう。そこには共同体の中で読むということに大きな意味があります。
B公同の信仰:そこで問われてくるのが公同の信仰としての教会の信条です。ひとりよがりの信仰のあり方から脱却する上で、共同体としての教会はどのような働きをするのでしょう。
C霊的な礼拝:この共同体を世の共同体から区別するものは礼拝です。礼拝を通して私たちはキリストの民としての性格を身につけていきます。
D慰めの共同体:私たちは孤独な信仰者ではなく、御言葉によって養われる神の民の一員です。そこに大きな慰めと励ましの源があります。それをどう分かち合えているでしょうか。
E共同体のかたち:神のお立てになった共同体には、霊的な秩序と制度が伴います。これは牧いといやしをもたらす制度です。
F教会の証し:最後に、教会は異教社会の中に置かれている共同体です。その中でキリストの民はどのように聖書の民としての性格を発揮し、普遍的価値を誇らかに伝達できるのでしょうか。
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