1.マナセ族への二重の土地配分

・ヨセフの子どもたちは、長男マナセと次男エフライムが独立した民族として、遇せられた。それは祖ヨセフの功績の故である。
-ヨシュア記16:1-3「ヨセフの子孫がくじで割り当てられた領土は、エリコに近いヨルダン川、エリコの水の東から荒れ野を経て、山地を越えてベテルに至る。そこからルズ、アルキ人の領地アタロトを経て、西に下り、ヤフレト人の領地から下ベト・ホロンの地境、更にゲゼルを過ぎ、海に達する。」
・エフライムに与えられた土地はシロやベテルを含む中央パレスチナであった。やがて彼らが分裂した北イスラエルの中核になる。
-ヨシュア記16:5-8「エフライムの子孫が氏族ごとに得た領域は次のとおりである。その嗣業の土地の境は、東のアトロト・アダルから上ベト・ホロンを経て、西へ向かう。北境は、ミクメタトから東へ曲がり、タアナト・シロを経てヤノハの東に出、そこからアタロト、ナアラ、エリコを経てヨルダン川に達する。西境はタプアからカナ川に沿い、海に達する。以上がエフライムの人々の部族が氏族ごとに受け継いだ嗣業の土地である。」
・マナセ族には、ヨルダン川東岸のギレアドの半分とバシャン地方がモーセにより与えられている。
−ヨシュア記17:1「マナセ部族もくじで領地の割り当てを受けた。マナセはヨセフの長男である。マナセの長男マキルは、ギレアドの父で、戦にたけ、ギレアドとバシャン地方を手に入れた」。
・一族の中で、ツェロフハドは息子がなく、嗣業の地を与えられず、娘たちの抗議により、彼らにも土地が与えられるようになった。それがヨルダン川西部、中央パレスチナ北部部分であった。
−ヨシュア記17:4-5「彼女たちは、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、および指導者たちの前に進み出て、『主は私たちにも親族の間に嗣業の土地を与えるように、既にモーセに命じておられます』と申し立てた。彼女たちは、主の命令に従い、父の兄弟たちの間に嗣業の土地を与えられた。マナセ族にはこうして、ヨルダン川の東、ギレアドとバシャン地方のほかに、十の地域が配分された」。
・マナセ族は割り当てられた土地を十分に活用出来ず、大部分の土地はカナン人の居住地のままであった。
−ヨシュア記17:12「マナセの人々はこれらの町を占領できなかったので、カナン人はこの地域に住み続けた」。
・マナセ族に与えられたギレアドは「薬効のある乳香」で有名であった。黒人霊歌「ギレアドに乳香あり」では、乳香がイエス・キリストによる癒しの比喩として、歌われる。
「ギレアドには乳香がある、傷ついた人を丸ごと癒す乳香が。ギレアドには乳香がある、罪に病んだ魂を癒す乳香が。私が落胆に沈み、やってきたことすべてが虚しかったと思えるとき、聖霊が私に臨み、魂を生き返らせてくださる。ペトロのように説教できなくても、パウロのように祈れなくても、イエスの愛を語ることはできるのだ。主はすべての人のために死んでくださったと。決して落胆してはならない。イエスがあなたの友なのだから。知識に欠けているならば、主が惜しみなく与えてくださる。」

2.もっと欲しいと要求するエフライム族

・エフライムに割り当てられた土地は中央パレスチナの、最も肥沃な土地であった。しかし、エフライム族は不満を懐き、もっと欲しいと要求した。
−ヨシュア記17:14「ヨセフの子らがヨシュアに『あなたはなぜ、ただ一つのくじによる嗣業の土地、一つの割り当てしかくださらないのですか。私の民は、主に祝福されて、これほど数多くなりました』と言った。」
・民数記26章によれば、エフライム族は3万人であり、ユダ7万人、ダン6万人他と比較して、特に人数が多かったわけではない。しかし、彼らは不満を持った。ヨシュアはエフライム族に反論した「山地が手狭なら、森林を切り開いて広くすればよいではないか」。
−ヨシュア記17:15「ヨシュアは答えた『あなたの民の数が多くて、エフライムの山地が手狭なら、森林地帯に入って行き、ペリジ人やレファイム人の地域を開拓するがよい』。
・エフライムの人々は言った「山地だけでは不十分だ。しかし、割り当てられた平地には、強い敵がいて、占領できない。別の地を割り当てて欲しい」。
−ヨシュア記17:16「ヨセフの子らが『山地だけでは足りません。しかし平地に住むカナン人は、ベト・シェアンとその周辺村落の住民もイズレエル平野の住民も皆、鉄の戦車を持っています』と言った。」
・ヨシュアは応えた「あなたがたは開拓すべき山林があり、征服すべき土地がある。主が共におられればすべては可能になるではないか」。ヨシュア自身もエフライムの出身であったが、出身部族への優遇は一切しなかった。
−ヨシュア記17:17-18「確かにあなたは数も多く、力も強い民となった。あなたの割り当ては、ただ一つのくじに限られてはならない。山地は森林だが、開拓してことごとく自分のものにするがよい。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いかもしれないが、きっと追い出すことができよう」
・エフライムは「森があるから領土は狭い」と文句を言い、ヨシュアは「開拓すれば森林も耕地となる」と反論した。エフライムは「平地の敵は強大で征服できない」とこぼし、ヨシュアは「主が共におられれば不可能はない」と励ました。エフライムに欠けているものは、主の恵みに対する感謝である。恵みを感謝しない時、いつも不平・不満が出てくる。
・旧約において「くじを引く」とは偶然や成り行き任せの決定に委ねることではなかった。その行為は「主の前で」行われる故に、決定は主の意思であると理解された。
-箴言16:33「くじは膝の上に投げるが、ふさわしい定めはすべて主から与えられる。」
ヨシュア記18:6「土地を七つに分割したら、その記録を私のところに持って来なさい。私たちの神、主の前で、私はあなたたちのためにくじを引く。」

3.人間の運命と自由意志(2013年6月9日説教、エレミヤ18:1-10、造られた存在として生きる)

・エレミヤ書は記します「主からエレミヤに臨んだ言葉。『立って、陶工の家に下って行け。そこで私の言葉をあなたに聞かせよう』。私は陶工の家に下って行った。彼はろくろを使って仕事をしていた」(18:1-3)。陶工はろくろを廻して粘土の形を整え、器を造ります。エレミヤが見ていますと、出来上がった器に満足できない時、陶工は一旦それを壊して、新しい器を造り直し、気にいるまで何度もその作業を繰り返します。この出来事を見ていたエレミヤに、神の言葉が響いて来ました。エレミヤは記します「陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。そのとき主の言葉が私に臨んだ『イスラエルの家よ、この陶工がしたように、私もお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちは私の手の中にある』」(18:4-6)。
・「ある時、私は一つの民や王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、もし、断罪したその民が悪を悔いるならば、私はその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる」(18:7-8)。エレミヤ18章は重要な真理を私たちに伝えます。すなわち「人間の運命は固定的、機械的に決定されるのではない」という真理です。人間の運命は既に決定していて変更できないようなものではなく、神に対して責任を持つ人間自身の自由な決断に委ねられているのです。私たちは罪を冒さざるを得ない存在ですが、その罪を悔い改めた時には赦されて、新しい運命が私たちを待ちます。悔い改めれば与えられるはずの災いは取り止められ、悔い改めなければその人の上に災いが降ります。何故ならば、神は一つの民を「抜き、壊し、滅ぼす」こともできますし、またその民を「建て、植える」こともおできになるのです。そこに神の摂理と人間の自由意志との関係があります。
・ユダ王国は滅び、指導者たちは遠いバビロンの地に捕囚となりました。エレミヤの預言から50年後、捕囚地バビロンに立てられた預言者は語ります「災いだ、土の器のかけらにすぎないのに、自分の造り主と争う者は。粘土が陶工に言うだろうか『何をしているのか、あなたの作ったものに取っ手がない』などと」(イザヤ45:9)。
・そしてエレミヤから600年後、初代教会の伝道者パウロは、イエスを受け入れようとしないユダヤ人に警告します「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に『どうして私をこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか」(ローマ9:20-21)。エレミヤの預言は彼の生前には誰も耳を傾けませんでした。しかし、後の人々はエレミヤの言葉を改めて聞き直し、立ち直る力を与えられたのです。